中道山明王院と福山城のお話し

明王院の国宝本堂は、内陣蟇股(かえるまた)の墨書から一三二一年(元応三年)に建立されたことが分かっています。そして、一九六四年(昭和三九年)に国宝に指定されました。一方、福山城は譜代大名水野勝成が、徳川幕府から西国鎮衛の拠点として備後十万石を授かり、一六二二年(元和八年)築城しました。江戸時代建築最後の最も完成された名城でした。

二〇二一年(令和三年)は明王院本堂が建立七百年で、二〇二二年(令和四年)が福山城の築城四百年となります。

明王院と福山城の間には、あまり知られていないご縁があります。ここではそのご縁について、わかりやすくご説明します。

 

明王院は福山藩の祈願寺でした。関係ないように思われる明王院が、どのようにして福山藩の祈願寺になったのかを歴史書から紐解くと、面白い出会いがあります。「備陽六郡志(びようろくぐんし」(①)という郷土史書によると次のように書かれています。

福山初代藩主水野勝成公は大和郡山(奈良県)からこの地に入った後、城をどこに建てたらいいかと、あちこち備後の地を巡り、常興寺山に決められました。十一月末、猟をしながら常興寺山あたりを見てまわっておられました。寒かったので、たまたま本庄にあった庵(いおり)に立ち入り、一人老僧がいたので「小麦餅を一つくれ」と言われ、老僧が「どうぞ」とお盆に載せてさしだし、老僧も火にあたりながら小麦餅を食べていると、お供の人たちが入ってきました。

老僧は(偉い人だと気づき)慌てて無礼を詫び、「どなたさまですか」と尋ねると、「日向守(勝成)だ」と言われ、「和尚は何宗で名前は」と聞かれたので、「真言宗の宥将ともうします」と答えました。「お城を建てたいが、地祭を頼めないか」と言われ、「恐れ入ります。承ります」と答えると、勝成公は悦ばれて、地祭(斎主)を仰せつけになり、同時に祈願所の住職を約束された。

築城の後、勝成公は神島町(今の霞町一丁目辺り)に明王院を建立され、宥将(明王院十七世)を招き入れ、祈願寺とされ、その後も勝成公の手厚い親任を受けました。

 

もう一人二代勝俊公と関係の深い僧に宥仙がいます。

勝俊公は幼い時、鞆(福山市)にいたことがあります。長福寺(のちの宝巌寺で現在大観寺)で手習いをしていた時、小僧の宥仙が勝俊公の身の回りのお世話をしていました。

「あなたが城主になられたら、どうぞ私を取り立ててほしい」と勝俊公にお願いしていました。

このことにより後に宥仙は常福寺をもらい受け、常福寺に移りました。これは「福山志料」(②)の草戸村に書かれています。しかし、常福寺には住職舜意がいました。 

この交代については、「草戸記」(③)に次の記録が見られます。一六五五年(承応四年)から一六五六年(明暦二年)の間に、三代勝貞公は草戸村の常福寺住職舜意を福成寺に隠居させ、城下神島町の明王院を常福寺に入れ寺名も明王院とし、時の住職宥仙(明王院十八世)を師と仰ぎ、水野氏と明王院の関係はますます強められました。

なお、鐘楼は一六四七年(正保四年)に勝成公が、鐘は一六五七年(明暦三年)に勝貞公がそれぞれ寄進しています。

藩主が水野から阿部に移っても、明王院と福山藩の関係は、明治時代の神仏分離まで続き、祈願寺としての援助をうけました。

 

 

※参考文献

① 備陽六郡志 宮原直倁【ゆき】著

     (一七〇二生~一七七六没年)

② 福山志料  菅茶山ら 著

     (一七四八生~一八二七没年)

③ 草戸記   野々口立圃 著

     (一五九五生~一六六九没年)

 

文責 明王院を愛する会 三谷干城